マナビラボ

第32回

2017.04.26

語られていないことを読み解く論理的思考に向けて

ほんまもんに触れる古典の授業 [前編]

創立当初から生徒の自主性を重んじる京都教育大学附属高等学校は、京都市伏見区に位置する国立大学の附属高校である。美しい庭園を備えた緑豊かな校内は心地よい静けさにつつまれており、そこが質の高い教育を支えてきた探求の場であることを感じさせる。京都教育大学の附属高校である同校では、研究に裏付けられた挑戦的な授業実践が試みられている。大学との連携は教育開発にとどまらず、生徒自らが京都教育大学をはじめとする大学研究機関の協力をえて自主的な研究活動に取り組むこともできるという。

 

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今回お邪魔したのは、国語科を担当する札埜和男先生の古典の授業。本時は、落語家の爪田家(つめたや)らいむさん(本名:矢野宗宏さん)を講師にむかえての授業ということで、図書室に特設された高座を前に生徒達は興味津々の様子で席についた。授業が始まると、札埜先生の呼び込みに応えてさっそく講師の爪田家さんが高座に上がり、大きな拍手でむかえられた。

札埜先生と爪田家さんの軽妙な掛け合いが笑いをさそう(札埜先生は日本笑い学会理事を務められている)。掛け合いを通して、爪田家さんから落語で用いられる小道具の役割と、様々な表現方法についての説明がなされた。実演を交えながら見台、拍子木、扇子、手ぬぐいを使った様々な表現方法を学ぶ。蕎麦をすする表現とうどんをすする表現にも、小さな工夫によって違いがある。こうして目の前で実演してもらうと、落語が限られた小道具と独特の仕草、そして巧みな言葉づかいで観客の想像力を最大限に掻き立てることによって成り立っているということがよく分かる。爪田家さんからのレクチャーが終わると、生徒たちには小道具をつかって自分なりの表現をする出番が与えられた。急なフリに対して恥ずかしがる様子はまったくない。流石は関西育ち。指名されると、少し首をひねったあとすぐに高座に上がる。

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生徒たちの表現はバラエティーに富んでいる。扇子をラケットに見立てて卓球の様子を臨場感たっぷりに演じる生徒。手ぬぐいを新聞に見立てた生徒は、難しい表情で新聞に見入ったあと、「あ、(上下)逆やった」としっかりオチまでつけて教室を沸かせていた。高座に上がる生徒への期待感と演者の緊張感、そして笑いに教室がつつまれる。扇子を携帯電話に見立てた女子生徒の演技も大いに笑いをさそったが、電話相手によって声色を変えるという表現は、その設定の面白さに加えて、複数の登場人物を感じさせる見事なものであった。

 

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生徒たちは実演を通して落語の技法に近づいていく。講師を招くことのねらいのひとつはここにある。「ほんまもん」に触れることによって、新たな気づきが生まれる。しかも、その「気づき」はあらかじめ教師が準備したものではない。生徒たちが「ほんまもん」に触れるなかで掴み取っていく。「ほんまもん」はそうした偶然の気づきや出会いをもたらしてくれるという経験が札埜先生の実践を支えているという。もちろんただ単に偶然に任せているのではなない。その偶然の気づきや出会いを逃さず掴み、次の学びへとつないでいく、札埜先生はそのチャンスを常に探っている。

生徒たちの実演が終わると、再度、爪田家さんが高座に上がる。いよいよ今回の演目「一文笛」が演じられた。「一文笛」は、腕の立つスリであった秀(ひで)という男の話だ。秀はかつてより世話になっていた兄貴に足を洗うように言われる。スリから足を洗うことを決意する秀だったが、その矢先、一文笛を売る駄菓子屋の前を通りかかる。駄菓子屋に集まる子どもたちのなかに一際貧しい身なりの子どもがいた。その子は「銭がない子は、あっち行ってんか」と邪険に扱われる。それを見た秀は幼いころの自分を見たような気持ちになり、その一文笛を盗んで、その子の懐にそれを放り込んだ。身に覚えのない笛が懐に入っていたことに気づいたその子は、ついその笛を吹いてしまう。盗みの容疑をかけられたその子は、許しを得られず、絶望してついに自ら井戸に身を投げてしまう。一命は取り留めたものの、目の覚めないというその子を前に、秀はいてもたってもいられない。そんな折に、銭がないという理由で治療を断った医者が酒に酔ってふらふらと歩いているのを見かける。秀は、その医者の懐から財布をスって、「金輪際スリからは足を洗う、罰も受けるから、何も言わずにこれを治療費に使ってくれ」と懇願する。

 

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生徒たちは「一文笛」にじっと聴き入る。授業前半で学んだ技法が随所で用いられている。小道具をつかった表現に加えて、より高度な表現技法について、爪田屋さんからの補足が加えられる。例えば、目線の使い方。どの登場人物が上座に向かって話していて、どのタイミングで登場人物の位置取りが変わったのかは、話し方と目線の方向で分かる。こうした表現技法と当時の習慣・習俗との関係について学ぶことで、古典落語が成立した文化的背景についての理解を深めていく。様々な表現技法が用いられていることのおもしろさに加えて、「一文笛」はそれ自体が人情噺として考えさせられる魅力的な演目である。秀の置かれた状況と彼のとった行動についてどう考えるか、生徒たちから様々な意見が寄せられた。想像力を存分に働かせて物語を理解すること、見えないもの、書かれていないことをどこまで読み取ることができるか。落語という題材は、実は表現と読解の核心に関わっている。札埜先生が落語を題材にした理由はここにある。

札埜先生は、国語で養われるべき読解力は、単なる言葉上の整合性にとどまるものではないと考えているという。明示的には書き表されていない背景や、人間像やその人物が置かれた状況をどのように捉えるのか、そうしたことへの想像力が国語における読解力には不可欠である。そして、情況や心情を理解しようとすることと、論理的に読解することは背反するものではない。札埜先生にとって国語は、人間事象への想像力を豊かにすること、言い換えれば社会的想像力に向けた試みだという。

 

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授業終了後、札埜先生はこっそり次回の授業の構想を教えてくださった。次回は、法律家をお招きして「一文笛」を法律的観点から読み直すという。秀という人間、彼の置かれた状況をどのように理解するのか。様々な知見から総合的に考える。国語で養われるべき読解力は、国語科の教科内容の範疇におさまらない。教科の枠組みにとらわれないことによって、逆説的に国語科でねらいとされる読解力が養われる。教科や学校の内外の境界を超えて「ほんまもんに触れるおもろい学び」を追い求める札埜先生に、「おもろい学び」の核心と、これからの挑戦についてお話しを伺った。

 

 

後編につづく

 

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京都教育大学附属高等学校は、京都市伏見区に位置する国立大学の附属高校。自由で穏やかな校風と輝かしい伝統を誇る同校では、研究に裏付けられた質の高い教育によって各界で活躍する多くの人材を輩出している。大学の実験・研究施設などを利用した自主的な研究活動の機会が生徒にも開かれており、大学や研究者との連携が進められている。

  • 取材

    田中 智輝

  • 撮影

    木村 充

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