第4回
2018.12.19
「共に探究する教師」のほうへ〜ハワイp4cの挑戦②〜
「海外のマナビ事情」ハワイp4c特集 第2回は、ハワイ大学でのインタビュー(中編)です。p4c Hawaii(以下、p4c HI)を始めたトマス・ジャクソン博士と、高校で先駆的に実践を重ねてこられたアンバー・ストロング・マカイアウ博士にお話を伺いました。(前編はこちら)
人はもともと哲学者、教師ももともと哲学者
マカイアウ博士
リップマンのモデルとp4c HIの違いということで付け加えるならば、教師あるいはファシリテーターの役割の違いもあると思います。
リップマンのモデルでは、ファシリテーターは哲学的な素養のある人がふさわしいと考えられています。つまり、大学院生とか哲学の学者とかが大学からやってきて、探究をファシリテートするわけです。ハワイでは「私たちはみんな生まれながらに哲学者である」という考え方に基づいて実践を行なってきました。私たちはみんな「不思議に思う(wonder)」能力をもっており、教師もまた哲学者であるなら、哲学の学者がファシリテーターになる必要はないはずです。自分自身の「不思議」と哲学の活動を涵養することができれば、哲学の探究やp4cのセッションをファシリテートすることができます。外部から入ってくる誰かに頼らなくてよいのです。
p4c HIのモデルスクールには哲学の学者が駐在していますが、彼らによるセッションはあくまで折にふれて行われるといったようなものです。ほとんどの時間は教師が自らセッションをファシリテートしていて、p4cを教師主導のムーブメントと見なしています。ハワイでは、先生方はp4cをより教育的な、教えと学びに対する様々なアプローチを統合するような考え方として捉え始めているのです。これはリップマンのモデルと大きく異なる部分であり、特にハワイの学校においてp4cが育っている理由だと思います。というのは、先生方のなかには他の先生に教える人たちも出てきていて、それぞれの学校のなかに「探求の共同体」を創りだすという形で、p4cを発展させることができているからです。
————他に、p4c HIならではの特徴はありますか?
マカイアウ博士
高校でもp4cの実践がなされていることと、文化的な意味でより応答的なアプローチが採られていることではないかと思います。これは高校の教師であった私自身の経験に基づいているのですが、例えばアメリカの歴史をp4cによって教える際には、その内容を再構成しなければなりませんでした。そこで私は、「教科で扱うべき内容を教えること」と「p4cの全体性を維持すること」との両立を真剣に考え始めました。
リップマンのモデルでは、リップマンの著した小説が探究のための問いを生み出す「刺激」となっていますが、私たちが変えたのは、ここでも再び教師たち自身が主体性をもつということです。哲学的に見て豊かな——多様な見方ができて、重要な概念や問いが含まれているような——刺激を、かつ、教科のカリキュラムのなかにきちんと位置づけられる刺激を、教師自身が選ぶわけです。このことも、リップマンのモデルとの大きな違いだと思います。
————教科で教えるべき内容がしっかりと決まっている高校でもp4cが根づいている背景には、探究のための問いとカリキュラムとを結びつけるという工夫があったのですね。
マカイアウ博士
そうなんです。そんなわけで、リップマンから離れて基盤を築いていくなかで、いくつかの根本的な転換があったように思います。それは、リップマンが目指したことの全体性は保ちつつ、その具体的な方法を検討するなかで生じた転換です。私たちの目標は、p4cをより多くの人と共有することだと思っています。
forからwithへ——共に探究する教師
————ところで、先ほどシラバスを見せていただいて気づいたのですが、皆さんがハワイ大学で開講なさっている授業の名前は、「子どものための哲学(philosophy for children)」ではなく「子どもと共にする哲学(philosophy with children)」ですよね。
ジャクソン博士
ええ。「のための(for)」に対するちょっとした違和感から、あえて「と共にする(with)」にしました。つまり、「のための」は大人と子どもの間に上下関係があることを示唆しているように思われたのです。世界中で展開しているP4Cのムーブメントのなかでさえ、みんな多かれ少なかれ「のための」に居心地の悪さを感じつつも、基本的にはそこから逃れられていないのです。しかしながら、「子どもと共にする哲学」こそ私たちが行っていることだと思います。そして、このことはある意味では教師にとっても根本的な転換と言えるでしょう。
私たちの探究の非常に重要な特徴は「共に探究する」ということです。例えば、教師にとってそれが意味するのは、「教師は答えを知っていなければならない」という重荷からの解放です。「誰ひとり前もって答えを持ちあわせていない」というのは実にホッとするものです。
しかし、それは決して「正解や不正解がない」という意味ではありません。そうではなくて、「サークルのなかで、誰が他の人に洞察を提供することになるのか分からない」「一緒に考えましょう」ということです。サークル内には、知的な意味での平等(intellectual equity)があると言えます。
サークルにおける教師の役割
————教師についての考え方もまた大きく転換するのですね。p4c HIにおいて教師は知的な意味で子どもと平等であるとのことですが、他方で、教師ならではの役割や教師の指導性といったようなものはどのようにとらえられているのでしょうか?
マカイアウ博士
いい質問ですね。簡潔にお答えするとすれば、その質問に対する「一般的な答え」はなく、先生方がそれぞれ独自のスタイルを発展させていくものだ、ということになるでしょう。
でも、私たちは「子どもたちと共に考える」というアイデアを心から好んでいます。どのような年齢の子どもたちに対してであっても、教師としてアイディアを提供したり、問いを出したり、ファシリテートしたりすることができると思いますし、同時に、サークル内のもう一人の仲間として彼らと共に考えることができると思います。個人的には、教師の役割としてそうしたことを強調したいと思います。なぜなら、それによって、子どもたちに思考とは何であるかというモデルを示すことができるからです。そのためには、教師は進んで自らの生を吟味し、問うことが不可欠ですし、教師と子どもの間で共有される活動として学習を捉える必要があります。
マカイアウ博士
サークルで可能な限り積極的な役割を担うのは教師であると、私は思います。考えられる限りすべてのストラテジーを自在に用いて、哲学を生きた教室の実践にするのは教師の役割です。例えば、問いを構造化するためのストラテジーとして、ドクター・ジェイ(注:ジャクソンさんのこと)が開発した「哲学者の道具箱(good thinker’s tool kit)*」がありますし、知的な意味での安全(intellectual safety)を確保するためのストラテジーとして、コミュニティーボール**を正しく使用することなどがあります。知的な意味での安全を確保するというのは、サークルを子どもたちにとって安心して探究できる場所にするということです。教師自身が知的な意味での安全を確保することもそうですし、その重要性を生徒たちに気づかせることも、教師にとってとりわけ重要な役割だと思います。私たちは高校でそうした安全な空間を生み出すのに大いに奮闘してきました。
ともあれ、優れた教師たちは多くのストラテジーが自身の引き出しに入っていて、それらを自在に取り出して教室で用いています。だからこそ、子どもたちが自分たち自身でそうしたストラテジーを用いることができるようになるのだと、私は思います。
*対話のなかでの発言について、言葉の意味(mean)や前提(assumption)、事例(example)などに着目することで、探究をよりよいものにするためのツール。子どもであれファシリテーターであれ、思考を深めるための道具として、対話のなかで自由に用いる。
**毛糸で作られたボール。①このボールを持っている人だけが発言できる(ファシリテーターもボールなしには発言できない)、②ボールを持っている人だけが次に発言する人を選ぶことができる(ファシリテーターもボールなしには次の発言者を指名できない)、③ボールが回ってきても発言をパスすることができる、などのルールがある。
p4cとは何か——その答えはコミュニティーと教師の数だけある
マカイアウ博士
ドクター・ジェイがおっしゃったように、p4cは教師に解放をもたらすものだと私も考えています。しかし、「答えを知る必要がある」「生徒を管理する唯一の方法は、一列に座らせ、静かにノートを取らせることである」と訓練されてきた教師にとっては、恐ろしいものでもあります。ですから、p4cに対して心地よく思うかどうかは、人によって異なることを目にされるでしょう。でも、教室で多くの人がやればやるだけ、日常生活でも行うようになりますし、当たり前のことになっていくと思います。
ジャクソン博士
教師の役割ということでもう一つ付け加えておきたいのは、p4cはコミュニティーを発展させるものだということに関わっています。つまり、そのコミュニティーがどのようなコミュニティーなのかによって、教師の関わり方は変わってくるのです。例えば、初期のコミュニティーでは、教師は教育学上指導性を強く発揮する必要があるでしょう。知的な意味で安全な空間を確保し、共同的に探究を深めるためのあらゆるプロトコルが必ず守られるようにするのです。
別の学校では別のコミュニティーが体験できますし、同じ学校でも受け持つ子どもたちによって教師の役割は異なります。大切なのは、「自分がどこにいるか」「向き合っている子どもたちは誰なのか」を忘れないことです。
マカイアウ博士
異なる教師に会い、教科や学年、経験年数、p4cにたどり着いたのかも異なる、複数のセッションを見た方がよいと考えるのはそのためです。p4cをp4cたらしめるものとは何か——その答えは一つではなく、教師によって解釈の幅があるのです。
(第3回に続く)
【Special Thanks】本取材では、マナビラボフレンズの山辺恵理子先生(都留文科大学)に大変お世話になりました。心より感謝申し上げます。
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取材
山辺 恵理子
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取材
田中 智輝
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取材
村松 灯
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撮影
田中 智輝